令和元年5月1日のインターネット。

digital wall

元号が変わるという希有なタイミングに、記念書き込みも兼ねて。

今日から暦が変わり、令和時代が始まる。
すこし振り返ろう。
個人的に平成とはどんな時代だったのか。

それは多くの同世代と同じと信じたいのだが、情報通信技術の発展と、コンピュータの普及によって私達の生活が変わり始めた時代。そしてインターネットを通して、誰もが必要な情報を求めればアクセスしやすくなった時代であろうと(昭和の頃に比べると)。

技術は急速に普及したものの、まだ私達の生活に対する影響はさほど多くない。大きく変わったのは電話だろうか。固定電話から携帯電話の時代へと、この30年で一気に煤だように思う。自動改札機やネット通販が当たり前になるなど、生活面では少しずつ、いや、これも大きく変わり始めたのが平成だったのだろう。

技術とは道具のようなものだ。先人達の試行錯誤の結果なり、智恵のお陰で、現在の便利な社会が成り立っている。原始時代、はじめは木の棍棒で狩りをするための道具、日を扱うための道具、服を作るための道具だったのだろう。衣食住を育み、文化となった。ヒトから人間になったのだ。

農耕土木、大規模建設、文字の発見と文学、数学、天文学、蒸気機関、電気、真空管、飛行機、ロケット、半導体、コンピュータ、そして、インターネット。

平成という時代とは、間違いなく、このインターネットが日本国内だけでなく、世界の多くの国や地域をつないだものとして記憶されるだろう。メディアによって、一方的に放送・報道される時代から、個人が必要に応じて自分で情報を得られ、与えられる時代。

一方で、科学の進歩によって、私達は豊かになったのだろうか。いや、そうではないということを、僕等は歴史を学んだから知っている。一般的に技術の発展には、社会的な問題を引き起こすことが多いだろう。昭和後半であれば、公害問題だろうか。今では歴史教科書の数頁で、概要を知るに留まるだろうが。

そして、インターネットも、まだ比較的新しい技術なので、技術に私達が踊らされているところもあるかもしれない。良いところもあれば、悪いところもある。技術で何をするのかは、私達の選択であり、その選択の結果が文化と呼ばれるものになるだろうか。

ナイフという道具があれば、食材を加工し、おいしい料理を家族で食べられるだろう。しかし、道具の使い方を誤れば、おそろしいことになってしまう。

道具をどう使うかは、人間の選択なのだ。
道具の善し悪しなどない。
私も含めた、使う人間一人一人の課題でもあり、
道具をどのように使うべきか、お互いが社会全体の共通認識を深めていく必要があるのだろう。

インターネットだけではない、パソコン通信もあれば、無線を使ったパケット通信もあった。それらのネットワークとインターネットとの違いは、オープンさではなかろうか。規格的な意味ではなく、アクセスのしやすさという意味で。

この30年で、手のひら大までコンピュータは小さくなり、しかも通信可能で、インターネットともつながる。SFの世界だね。21世紀って感じがするよ。

道具は揃い始めた。あとは、生活様式なり考え方なり、いわゆる文化に対する大きな影響が出てくるのが、今この令和という時代になっていくのだと思う。

そう思うと、まだワクワクせざるを得ない。楽しい時代になってきた。
まだ始まったばかりなのだ。

(郷里の富山県滑川市にて記す。)

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