プログラミング教育で「嫌い」になっても良いじゃない

Image by Claudio Bianchi from Pixabay

 小学校時代の私は、体育が嫌いでした。それでも大人になった今は、走るのが好きになりました。プログラミング教育で仮に嫌いになったとしても、小学校段階では向き不向きが解るから、それでも良いでしょう。ただ、必要なときに利用できるような何かを、今のうちに整えていく必要があるのではないでしょうか。

 来年度(2020年度)から、小学校で「いわゆる」プログラミング教育が始まります。同じく来年度から教科が新設される英語(外国語教育)とは異なり、プログラミングという授業の教科はできません。しかし、普段の(授業での)学びの中で、より深い学びや気付きのためにコンピュータやプログラミングを活用する「プログラミング的思考」が取り込まれます。

 このプログラミング教育を巡っては様々な議論があります。たとえば、Scratchをはじめとしたビジュアル言語を利用する可否、学校側の設備が整っているかどうか。果ては、そもそも学校の先生に教えられるかどうか(私はこの意見は極めて現場の先生方に対して失礼と思っています)という発言も耳にします。

 そのような中、私の中で意見が変わったものがあります。以前の私は、全ての子ども達がプログラミングやコンピュータを当たり前のように使えるようになるべきだ、という立場だったのです。それも、あらゆる手段を使って実現しなくてはいけないと。

 そのため、「プログラミングを学校で学ぶことにより、プログラミングが嫌いになる子どもが増えてしまうのでは?」といった危惧に対しては、以前の私は反発する気持ちが強かった。危惧とは、たとえば、授業においては、プログラミング言語を丸暗記させられるのでは。テストでは、学校で学んだことしか書くのが許されていなかったりするのでは。などなど。

 そのような意見に対しては「そうならないように、学校の先生が工夫すべきですし、学校で無理なら企業なり地域でカバーすべき」と思っていました。この基本となる考えは、学校で学ぶことに無駄は無いはずだ、という私の過剰な期待によるものでした。

 しかし、よくよく私の小学校時代を思い出せば、学校で学ぶことで嫌いになった教科がありました。

 それは「体育」です。

 私は本当に体育が嫌いでした。私の小学校時代は運動神経がよくなく、100メートル走は常に最後でしたし、リレーに出ても球技でもチームの足を引っ張る存在だったと自負しています。マラソンや水泳、器械運動などもだめ。小学校時代の記憶はあまりないのですが、体育については、まったくもって碌な記憶がありません。しかも、どれだけ必死に頑張っていたとしても(本当ですよ?)、学期末の通知表に記載された成績は、無慈悲そのもの。これで幼いながらも、私の小さな自尊心は酷く痛めつけられたものです。

 だからこそ、体育が嫌いになったのは、は私にとっては良い経験だったと今は思います。授業で体育がダメダメでしたからこそ、「自分には運動が得意ではないのだ、不向きなのだ」というのを人生のかなりはじめの段階で自覚したからです。そして、私は休み時間にグラウンドで走り回る同級生らを後目に、図書館で好きな本を探す旅に出かけるようになりました。そこで、科学に対する興味が高まり、気がつけば、コンピュータやインターネットを活用する職業で働くようになりました。

 今後もしも、子ども達が授業でプログラミングを使うことにより、それが向いていないと子ども達が気付くのであれば、それも仕方が無いと今は思っています。実際、私は会社の活動を通して小学校の出前授業に出て気がついたのは、子どもの数だけ個性があるという、考えてみれば当たり前のこと。コンピュータが向いている子どももいれば、そうではない子どももいます。

 なんだ、体育が向いていない自分がいたように、きっとコンピュータやプログラミングが向いていない子どももいるでしょうねと。

 改めて考えてみますと、コンピュータやプログラミングといったものは、現代における自動車運転と同じではないでしょうか。好きとか嫌いではなく、生活にとって欠かせないものが自動車の運転です(公共交通が都市部では必要のない地域もありますが、割と全国的には)。

 来年度から始まるプログラミング教育も、別にプロのITエンジニアを小学校から育成しようという意図はありません。体育が得意な子ども達が、みなプロのアスリートにならないのと同じように。来年度から実施の新学習指導要領の記述では、私たちの生活において、将来どのような職業に就いても、コンピュータやネットワークの活用は欠かせない時代が迫っているからあります。今後予測可能な時代を生きる子ども達に「必須のスキル」としての、情報活用能力をはじめとする、コンピュータやインターネットの活用であると。

 だから、もし仮に授業で「自分が不向きだから」と嫌いになる子ども達は当然出てくる可能性はあるでしょう。とはいえ、そのような子どもを置き去りにすることは、私はよくないと思っています。仮に授業で嫌いになったとしても、生きるスキルを養う場を、学校任せにせず、地域や企業も踏み込んでいく必要がある。

 なお、体育という授業が嫌いだった私ですが、大人になった今は走るのが嫌いではありません。運動は全般的に苦手なままですが、10km走るのも苦ではありません。そして、ランニングは趣味で楽しむ程度になっています。

 仮に授業でコンピュータやプログラミングが苦手で嫌いになってもいい。その代わりに運動が得意であれば、陸上選手を目指すのも良いでしょう。でも、いつかコンピュータを使う必要が出てきたら、いつでも使えるように(まるで車を運転するかのように)、環境なり私たちの考え方を整えていかなくてはいけない。

 そんなことを最近は考えています。

 ところで、プログラミング教育に関する連載記事が始まりました。よろしければこちらもご覧ください

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